今回、ふと思ったことをこうしてレポートのような形で記してみた。
それは、タイトルの通り『認識と理解』というものである。
『認識』と『理解』の二つの単語は国語辞典等を調べればすぐにその意味がわかる。
『認識』とは、認め知ること。物事をはっきり知り、その意義を正しく理解、弁別すること。
『理解』とは、内容、意味などを知ること。他人の気持ちや物事の意味を受け取ること。
である。
さて、今回私はこの二つについて何を考えたのか。
それは、『人間が物事を新たに知るときの違い』である。
人が新たな知識を得る際、二つの得方がある。それが、『認識』と『理解』である。
では、その二つにはどのような違いがあるのか。
それを述べる前に、もう一度『認識』と『理解』の違いを述べたいと思う。上記の説明では難しすぎて、いまいち分かりづらいと思われるからだ。
簡潔に述べる。
『認識』とは、物事の原理、すなわち根底を知ること。
『理解』とは、物事の全体を大まかに知ること。
つまり、『認識』と『理解』を比べると、『認識』の方が『理解』よりも深い意味を持つことになる。
『認識』と『理解』を比べると、一般的には『認識』が大まか、『理解』が深い、という様に考えると思う。実際私はそうである。もとい、そうであった。
だが、意味を知ればその比較が間違いであることが分かったのである。
話を戻そう。
この『認識』と『理解』にどんな違いが起こるか。
極端な例であり、このような形で人を比較するのは大きな間違いである。しかしながら、この例えがもっとも分かり易いと思うので、あえてこの方法を取らせて頂いた。
決して非難、差別をしているわけではない。
その例えとは、『頭が悪い人間』と『頭が良い人間』である。
『頭が悪い』と言われる人間は、別の言い方で『理解力が低い』と言われる。『頭が良い』と言われる人間は、その逆である。
つまり、人間が新たな物事を知るためには『理解』が必要なのである。
人間は『理解』することで、物事を知り。そして、自分の知識とする。
しかし、新たな知識を『認識』しようとする人間もいる。
例えを挙げよう。良い例えがある。
それは、『分数の割り算』である。
割り算は、『割られる数÷割る数』の形で成り立っている。分数の割り算もまた然り。
しかし、分数の割り算は一般的な割り算とは違い、特殊な解法となっている。
皆さんもご存知の通り、『割る数の分子と分母をひっくり返し、尚且つ掛け算にする』というものである。
この解法を『理解』するか、『認識』するかにより違いが生まれるのである。
『理解』する人間は、その解法を瞬時に知識として蓄えるのである。
だがしかし、『認識』する人間は、その解法の原理を知ろうとするのである。
これが大きな誤差となる。
『理解』とはいたって簡単なものである。ただ単にAはAであるということを知識として脳に刻み込めばいいだけだからだ。
反対に、『認識』とは難しいものだ。AはAである。ならばなぜAはAなのか。ということを考えなければいけない。それを解かなければ、『理解』することが出来ないのである。
結果、『理解』する人間は『頭が良い人間』。『認識』する人間は『頭が悪い人間』と区別されてしまうのである。
そして、『頭が悪い』といわれる人間は、必死になって勉強するだろう。なかにはそのまま諦める人もいるだろうが。
必死になって勉強する。だが、『理解』出来ない。
言ってしまえば当然のことである。彼らがしていることは『理解』ではなく『認識』なのだから。
そして彼らはやがて、他人に知識を求めることになる。
『頭が良い』と言われる人間に、色々と知識を求めることだろう。
だがしかし、それは大きな間違いである。
分からないのならば、分からないもの同士で考えるのが一番の方法である。
他人の知識を求めてはならない。とくに『頭の良い人間』からは求めないことが鉄則だ。
なぜか。
何度も述べているが、『頭の良い人間』は、『理解』から入る人間である。『認識』から入らないのである。つまり、考え方が違うのだ。
『理解』する人間は、『認識』する人間のことを『理解』できないのである。
それは考え方が違う、また、対象が人間であるためだ。
人間は、他人の気持ちを理解することが苦手である。というよりも出来ないと言っていい。
理解したような気持ちになるのは、真の意味で理解ではない。理解していると感じているのは、単なる感情移入である。他人の感情を自分に取り込むことで、他人の心情を理解している気になるだけなのだ。
結果的に何を言いたいのか。
つまり『理解』から入る人間は、『認識』からは入らない。故に、『認識』から入る人間が、何故『理解』できないのかを『理解』出来ないのである。
簡単に言えば、
「なんでこんなの分かんないんだよ」
ということである。だから、『理解』できる人間は他人に知識を与えることが苦手なのだ。
だから、『理解』する人間に知識を求めても無駄である。そういう奴らは放っておいて、『認識』する人間同士で考えることが大切なのである。
では何故、『認識』する人間は物事を『認識』しようとするのか。
それは色々と理由があるだろう。
たとえば好奇心。
たとえば意味の勘違い。
最初に述べたことだが、私は『認識』と『理解』について、二つの意味を履き違えていた。
すなわち、『理解』しようとして『認識』しようとしているのだ。
もし、この文章を読み、自分は『認識』する人間だという人がいたならば、『理解』と『認識』の違いをもう一度考え直して見ると良いだろう。
『理解』とは大まかに、『認識』とは原理から知ることである。
人間が新たな知識を得る際に必要なことは『理解』である。
だからといって『認識』は不必要だということではない。むしろ、『認識』こそが必要なものなのである。
『認識』して、初めて『完全なる知識』は完成されるのだ。『理解』しただけでは『一時的な知識』でしかない。
物事を『理解』出来る人間は多くても、『認識』できる人間はそうそういない。『認識』とはそれほど難しいことなのである。
『理解』出来る人間に知識を求めてはいけない。『認識』できないものは、自分で『認識』することが大切なのだ。
『認識』出来れば、他人に知識を求める必要はない。逆に他人に知識を与えることさえ出来る。他人から得た知識は簡単に消えうせてしまう。だが、自分で得た知識は一生自分の知識として脳に刻まれる。
この文章を読んでくださった方々。お付き合い頂きありがとうございました。
物事を『認識』から入っている方々。『認識』と『理解』の違いを知り、『理解』に勤めていきましょう。
物事を『理解』から入っている方々。『理解』だけではなく、『認識』もしましょう。
ちなみに私は『理解』から入る人間です。故に、これまで物事を『認識』しようとしたことはありません。しかしながら、『分数の割り算の解法』の原理については『認識』したことがあります。
次回は(気が向いたら)そのことについて語り明かしたいと思います(何